2009/01/19

京都から独立した気概──佛通寺

2008.12.27
【広島県】

 筆影山(Map)

 ここは三原市街の近くにある、海に面した山頂の展望台です。
 瀬戸内海の絶景ポイントのひとつで、快晴の日のお昼頃だと南側は全面逆光(キラキラ)の海になります。
 山道の途中で三脚を据えている方がいましたが、光の具合を計算しているでしょうから、きっといい絵が撮れたことと思われます。
 奧に見える橋は、向島と因島を結ぶ因島大橋です(キラキラよりもこの方面が撮りたかったので…)。

 世の中のモノは遠くから眺めると、いい悪いを含めた判断や認識ができる対象の範囲を超えた「風景」となってしまうので、ほとんどのモノは美しい絵を構成するパーツの一部になることができるのかも知れません。
 そんなことを感じる自分の認識のいい加減さを、確認できたようにも思えました。
 ──この景色の中に、気に入っているモノや、気に入らないモノがあるというわけではなく、好き嫌いの判断ができないならば同じフレーム内にあるものは、等価値として判断していいのではないか? と感じたという意味です。


 上写真に「瀬戸の花嫁」(1972年:小柳ルミ子)を想起したなどと書いても伝わりませんわね。年代を調べようとしたら「懐メロ」とありました(小豆島近くの沖之島が舞台なんだそうです)。
 フェリーなどではもう耳にしませんでしたが、周辺にあるJRの駅では「駅のメロディ」として使用されているそうです。
 いまどきの音楽事情からすると、ポルノグラフィティ(因島出身)などになるのでしょうか……
 男なので、海を渡って嫁ぐ心境というのは理解できないのですが、逆に、海を越えて嫁さんを迎えに行く状況を想像すると、まさしく決心を胸に海を渡るわけですから「これで、男になれたかなぁ」と思える程度には、少し大きく見えたのではないでしょうか。
 いずれにしても、素晴らしい舞台設定であると思ってしまいます。
 ──これ全部、頭の中での勝手な想像なんですけど……


 佛通寺(Map)


 前日の宿にあった観光案内でこの寺の名前を見つけ、どこかで聞いたことがあると思い立ち寄ってみました。
 駐車場は空っぽで、路線バスも空気だけを運んで来るような時期ですが、紅葉の季節にはもの凄い人出なんだそうです。
 参道の杉並木のたたずまいから素晴らしく、崑崗池(こんこういけ:雪舟の名前が残るそうですが、お寺側は潔く否定しています←そんな姿勢こそが「日本人の尊さ」と思います)の存在感は、作者がどうあれ目を引かれます。
 そして屋根の付いた橋が二つあり、手前に飛猿橋(ひえんばし)、山門前に上写真の巨蟒橋(きょもうばし:巨蟒=大蛇の意味)が架けられています。
 ──今回は紹介できませんでしたが、四国愛媛県の内子(うちこ)周辺には、屋根付きの橋が多くありますので、興味のある方は是非。普通の農道に架けられた橋に作物が干してあったりする風情は一興と思います。

 久しぶりに「京風」の禅寺に出会えた気がして「おぉ」と声を上げて、ちと興奮しました。
 その心境を後でふり返ってみると、京都につながる存在を欲していたのではないか、とも思われます。

 ここは1397年に小早川春平(近くにある高山城主)により創建された臨済宗の禅寺で、開山(最初の住職)は愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう:夢窓国師の弟子)になります。
 室町時代の足利将軍家に保護されながらもその後衰退し、明治時代に臨済宗佛通寺派として独立して、総本山になったそうです。
 ──きっとそんな記述を覚えていたのだと思います。

 ほとんど威光を失っていた寺の再建という運動により、京都嵐山の天龍寺派からの独立復興を果たし、西日本唯一の参禅道場(一般者も参加できる)を開くまでに至ったとのことです。
 中央に頼らなくても存続できる(この場合は京都)といった基盤や信念を、それぞれの地域で確立していくことが、いつの時代でも大切だと思われるのですが、経済的な側面を考えるとどんどん難しくなっているようにも思われます。
 今どき「独立してやるぜ!」なんてたんかを切れる地方があったとしたら、こころ動いてしまうような気がするのですが……
 ──あくまでも、どこかの国の宗教のように「○○派の武装組織」などとならないことが前提です。

 右写真には、境内の砂に描かれた模様が見られます。
 鎌倉で目にした庭よりも、もっとアバウトな印象(柵もなく足を踏み入れられる場所にある)なのに「石庭を久しぶりに目にした」と感じたのはなぜでしょう?
 周囲の環境にとてもなじんでいるというか、砂に描かれた筋に沿って空気が流れているかのようで、そこから「静けさ」「やすらぎ」というものが感じられるのかも知れません。
 禅道場もあるお寺ですから、俗世から離れる必要もあったと思われますが、静寂感に包まれている立地が素晴らしい、と感じさせてくれるお寺です。
 修行中のお坊さんも見かけたりしても、無愛想な感じが好印象だったりします。


 自分では右写真の構図がとても気に入っています。
 撮り方がどうのこうの言うのではなく、石仏の配置が見事だと思います。
 正面を向いている仏様と、右側に並んでいる仏様では、奉られた目的が異なると思われるのですが、時を経ることによりそれぞれに込められた祈りが、後方の多宝塔へと収斂されているように見え、同じように現世の安寧を願っていてくれるように思えるからでしょうか。

 ちょうどこれを書いているころに映画『禅 ZEN』を観ました。これは、道元による曹洞宗を描いていますから、これまでふれてきた臨済宗とは異なってきます。
 禅宗とは、個人救済のための教えという印象があり、道元の姿勢の方が正しいようにも思えます。
 ですが、国の役人や領主など、上に立つ者にすれば、国の民や領民のこころをまとめる役目があるので、政治に利用できる禅の教えというものも必要だったのではないか、とも思われます。

 京都の石仏を思い出してしまい、また会いに行きたい気持ちが高まってきました……

 これで今回の瀬戸内の旅は終了になります。
 現在最も気に入っている「瀬戸内海のいいとこ取り」(+鞆の浦としたいところです)という企画だったのですが、ご意見をお聞かせ下さい。
 次の旅行は……
 なんて言ってる場合ではなく「し・ご・と」です。

2009/01/16

時をかける少女も困惑する?──竹原

2008.12.27
【広島県】

 竹原(Map)

 ここは5年ぶりなのですが前回は予習をしていなかったので、どこかで見た気がすると感じながら「…かも知れない」程度の、おぼろげな記憶しかなくて悔しい思いをしました。
 その時以来、旅行前にその地を舞台とした映画を観るようになったんだと思います。
 尾道が舞台だと思っていた『時をかける少女』(1983年)に登場した町並みは、ここ竹原にありました。
 この写真群を見た後で映画のDVDなりを見てもらうと、ちょっと驚くと思います。
 25年の月日が経過したとは思えないほど、映画に登場したそのままの風景がこの町には残されています。
 景観保存地区ではあるのですが、ここまできれいに残されているとは思いませんでしたし、そのような「残して、後世に伝えたい」という気持ちが、文化をはぐくむ原動力であることを「現在進行形」で感じることができて、とてもいい経験になっと思っています。


 前回訪問時の予備知識としては、古くからの町であり「竹の原」から想起される竹の産地→竹取物語方面に関心が向いており、「かぐや姫美術館」(忠海:ただのうみ)など、ガイドブック等のコマーシャルに乗せられていたようです(物語の舞台は奈良県だそうです)。
 地名の由来としては、「竹の原」(現在でもタケノコの産地)もしくは、室町~戦国時代の領主であった竹原小早川氏によるという説があるそうです。
 町の起こりは平安時代、京都下鴨神社の荘園として栄えたそうで「安芸の小京都」と呼ばれると、竹原市の観光案内では自慢しています。
 いにしえの地方都市はどこも、京都の文化や華やかさにあこがれ、こぞって京風をまねたり取り入れようとしていました(最初の写真は清水寺の舞台を模した普明閣からの風景)。
 現代では豊かさの象徴とされる東京ですが、いまでは都市の側から大資本に物を言わせ、地方都市のエキスを吸い上げようと襲いかかってきます。
 地方まで制圧した感のあるコンビニですが、新規開店するごとに地元商店を駆逐していったことは、地方都市にとって脅威に感じられたのではないでしょうか。
 そんな認識がありながらも、旅行時には立ち寄ってしまうし、無いとどうしようかと考えてしまうわたしなどに、批判する資格はありません。
 「便利さ」という基準によって淘汰されていく地元商店、という図式は理解できるのですが、それじゃ商店街が寂れるばかりじゃないか、と指をくわえているしかないのだろうか?


 上写真3枚は西方寺という浄土宗のお寺で、暮れも押し迫る時期なので、ご先祖様のお墓掃除に訪れる方が何組もおられます。
 わたしの家では、春秋の彼岸にしかお墓参りをしていなかったので、きっと「この不精者」と怒られていたかも知れません。

 前日は近くの湯坂温泉にある、近ごろ売却問題で話題のかんぽの宿に泊まりました。その温泉には近所の方も入りに来るので、露天風呂などは満員です(そんなこともありこの施設の運営は成功しているように思えるのですが)。
 風呂の中で、かなりお年を召したじいさんの戦争体験の話しを、知り合いとは思えないおやじが、大げさ過ぎと思える相づちを打ちながら、じいさんを盛り上げようとしていました。
 そんな光景を見ていると、振り込めサギの「言葉巧みに…」とはこういうものかも、なんて思ってしまいます(大変な失礼かも…)。
 素直に受け入れられない世の中って、困りものです……


 この町には古くから市場があったようですが、町が栄えたのは江戸時代の塩田開発と酒造業が盛んになってからのようです。
 この町並み保存地区は昔の商家町で、立派な建造物が軒を連ねています。
 それぞれの旧家では、ひな祭りになると各家に伝わるひな人形を展示するので、そんな人形たちを見て回ることができるのだそうです。
 ここがメインストリートで、その通りの突き当たりに恵比寿堂(上写真)がたたずんでいます。
 クロガネモチ(だったか?)の赤い実が、白壁の町並みに彩りを添えている辺りを(右写真、町並み保存センター前)、右奧に少し入ったところに、お祈りしながら持ち上げて、軽いと感じたら願いが叶うと伝わる、おかかえ地蔵があるので、とにかくお願いしておこうと……
 それなりの重量感はありましたが、重いと言ってはいけません。


 これが「竹の里」の素直な楽しみ方なのではないか、と思われました。
 この地はむかしから竹が多かったにしても、かぐや姫のルーツではないわけですから便乗などとは考えず、そこは歴史を謙虚に受け止めた上で「竹原の竹を楽しんでみませんか?」という提案のように思え、この庭を造った方の趣向に賛同できる思いがしました(おかかえ地蔵からの帰り道脇だったと思う)。


 手前にある横に渡された木は目の前にある格子ですが、その奧、縦に並んでいる模様は、この上段に設置されている格子の陰になります。
 伝わるでしょうか?
 竹原の旧家屋の格子は、形式や組み合わせがとても多様だそうで、それも見所であるとの説明があるのですが、わたしはそこまで区別できませんでした。


 瀬戸内海に点在した塩田とは、入り江の奧に広がった湿地で稲作を試みても、塩分が強すぎて作物が育たない土地なので、仕方なく塩田とされた場所が多いらしく、竹原もその部類にはいるようです。
 ということは、児島湾を埋め立て水田を作った(ことのはじめは戦国大名の宇喜多秀家とのこと)彼らは「プロジェクトX」モノですね……
 塩田となった地はそれでも、工場誘致の埋め立てをしやすい下地を作っていたことになりますから、自治体も助かったことでしょう(逆説的な意味)。
 だったら、やっぱり児島湾の干拓地のような景色の方が好きだなぁ。
 しかし、工場ゼロでは地域経済が成り立たなくなってしまいますから……(まとまらない文章になりましたが、現実って難しいですよね)


 塩と並んでこの町の財政を支えたのが酒造業だそうで、ニッカウヰスキー(余市工場に行ったことあります)の創業者である竹鶴さん(ボトルの名前にある)は竹原の酒蔵出身だそうで、竹鶴邸が残されています(写真は別の場所)。
 酒と書かれた布地左側の白くシミのように見える部分は、繕った跡になります。
 のれんを守るって、こういうことなのでしょうね。

 いや、狭いながらもむかしから守り続けてきた文化が、伝えられたままに残されている、本当にあっぱれな町でした。

 時をかける少女が何度訪れても
「また同じね。これじゃ、いつの時代だか分からない!」
 なんて嘆くかも知れません……

2009/01/14

橋で結ばれた──安芸灘とびしま海道

2008.12.26
【広島県】


 大崎上島(明石)から大崎下島(小長)へ向かうフェリーです。
 こんな光景はとても好きなので、旅行者が島へ渡るには船の方が風情があっていい、と思ってしまいます。
 フェリーの最前列に駐車したので、下船時には潮だらけになっていました。

 「安芸灘(あきなだ)とびしま海道」とは、呉市から橋で結ばれた「下蒲刈島((しもかまがりじま))」「上蒲刈島(かみかまがりじま)」「豊島(とよしま)」「大崎下島(おおさきしもじま)」「岡村島」へと続く道のことですが、これ最近つけられたネーミングではないかと思われます。
 2008年11月に開通した豊島大橋の完成イベントの一環として、愛称を募集したそうです(できたてです)。
 その記述には「全線開通」などの表記もあり、その先の大崎上島への架橋計画は夢と散ってしまったの? とも受け取れてしまいます……


 大崎下島(Map)


 ここ御手洗(みたらい)地区にある家々の軒先には、生花が飾られています。「軒下に一輪挿し活動」という女性たちの有志活動なんだそうです。
 ここは二度目なのですが、来客をもてなそうとする姿勢が変わらないところが素晴らしいと思います。
 驚いたのは、町中ですれ違った女性に「いらっしゃいませ」とあいさつされたことです(この方は、お知らせを各家に配布していたようなので観光関係の仕事なのかも知れません)。
 女性の方々は全員、郵便配達の若い兄ちゃんも「こんにちは」のあいさつをしてくれるというのは、この町の印象アップにつながるわけですから、とても素敵な習慣に思われます。
 まあどこでもそうですが、オッサンはなかなかあいさつしてくれませんね。
 ──沖縄のオッサンが最も気軽に声を掛けてくれるように思えます。でもその違いって、とてつもなく大きな違いであるように思えます。


 大崎下島や御手洗の名は、ほとんど知名度がないのではと思われます(瀬戸内では、鞆の浦と同様にとても引かれる港町です)。
 瀬戸内海の航路は最初「地乗り」と言われる、陸づたいを行き来していましたが、江戸時代には「沖乗り」という最短距離の航路を整備するための「風待ち港」としてこの港が開かれ、主に北海道や日本海の産物(ニシン等)を大阪・京都へ運ぶ、北前船(きたまえぶね)が多く利用したそうです。
 しかし、幕末以降の動力船(蒸気船等)の登場と共に役目は終わってしまったので、にぎやかな時代は短かったようです。
 ですが、昭和初期の建物で現在復元された劇場の「乙女座」や、 洋風建築の病院(未掲載)などが残されており、とても開かれた気風を持ち合わせた港町のように思え、「次には、何がやってくるのかしら?」などと、「時代の風を待つ港」というような風情すら感じられました。


 そして2008年11月に豊島大橋(とよしまおおはし)が開通して本州と陸続きとなり、自動車の観光客が押し寄せてくるようになります。
 ネット情報によると、トイレと食事処の少なさに大ひんしゅくをかった、とありました。
 そんな開通イベントだけのために準備できるわけがないのは当たり前ですから、観光客とは勝手なものです。閑散としているこの日に食事処が営業していても、成り立たないと思われますもの……

 急峻な斜面にミカン畑が続く島ですから、農道を含めた道路は整備されていますが、島の人々の移動スタイルは軽トラックですから、道幅はすれ違うのにやっとの幅しかありません(それくらいは我慢しましょう)。
 前回訪問時に困った駐車場が無いことにも、少しずつ対応準備が進んでいるようです。
 そんなペースでも島の人たちは楽観的に「何がやってくるのかしら?」と、期待を抱いているのではないだろうかと思い、ハッとしました。
 そういう「純真さ」というものを、わたしはどの辺りで失ってしまったのだろうか?
 そのような、自覚できなかったことへの後悔って、どう扱ったらいいのでしょうか……


 「大長(おおちょう)ミカン」というブランド、もしくはネーム入りの段ボールを目にしたことがあるでしょうか?
 戻ってからスーパーなどで探してみたのですが、見あたりません。主な出荷先は関西方面なのかも知れません。
 温州(うんしゅう)ミカンの仲間の「早生(わせ)温州」という種類をこの地で育て、広島一のブランドミカンにしたと鼻高々でした。
 一人暮らしをしてからウン十年、果物をめっきり食べなくなりましたが、久しぶりに食べたこの地のミカンに、物足りなさを感じたりしました。
 それはおそらく、都市に出回っているミカンが甘すぎるのだと思われます。
 スーパー等では、売れる商品を仕入れたがりますから、消費者の口も売れ筋の味に慣らされてしまうのだと思います。
 それでは生産者も大変だと思いますが「でも、どっちを買いますか?」と言われたら、甘い方を買ってしまう気がします……
 ──近ごろ梅干しも甘さを意識した商品が多く、わたしは顔をすぼめるような酸っぱさ・しょっぱさが好きなので(一日一粒なのだから塩分控えめなんて関係ない)、いまどき探すのに苦労したりします。売れ筋商品とは、安くできるからではなくて、販売業者が「扱いやすい商品」(売れ残りが少ない商品)であるだけなのではないか? と思ったりします。


 御手洗地区を見渡せる展望台がミカン山の中にあります。
 鞆の浦(とものうら)や上関(かみのせき:山口県)のような、天然の良港の景色というものは、眺めるだけで和んでしまいます。
 橋の開通をとてもよろこんでいるこの島には「とびしま海道へようこそ」と書かれたのぼりが数多くはためいており、そこには住民の方々の願いが込められています。
 鞆の浦(港を埋め立てるバイパス道路)や上関(原発誘致の計画があるそうです)のような、招きたくない客が訪れないようにと願っております。




 豊島〜上蒲刈島〜下蒲刈島(Map)


 遠方の島が水面から離れているように見えます。浮島現象と言うそうで、蜃気楼の一種なんだそうです。
 目にするときは、けだるい夏の午後という印象があったのですが、この日はこちらの意識も結構ピシッとしていたので撮影できました(夏はボケーッと運転しとんのかい?)。

 これが昨年11月に開通した豊島大橋で、豊島と上蒲刈島を結びます。
 対面通行の2車線で結構スマートな印象を受けるのですが、長さは900m程度あり、本州にある造船所に出入りする船のため、橋桁まで50mの高さを確保する必要があったとのことです。
 確かに必要性があるからその高さが設定されたのは理解できますが、橋の高さってそうやって決められるものなんですね。
 てことは、橋の内海側には今後それ以上大きな船を造る造船所は建てられなくなる、ということになるわけですな。勉強になりました。
 ──ちょっと待った! 横浜ベイブリッジの橋桁の高さがそんな程度だった気がして調べてみると、長さ860m、橋桁の高さ55m。ちなみにレインボーブリッジは長さ800m、橋桁の高さ50mですから、構造は違うにしても大きな部類にはいる橋といえそうです。来島海峡大橋など日本で3本の指にはいるような巨大な橋を目にして、感覚が麻痺していたようです。

 上蒲刈島方面から、高校生とおぼしき3人の野郎どもが橋を渡ってきます。
 勝手な想像ですが「おう、ちょっと橋行こうぜ」と、特に目的は無いながらもとりあえず目新しい橋まで歩きに行こうや、といった風情に感じられ、「何でそんなことしてたのか?」とふり返っても、理由など見つかるはずのないことを

「いや、ちょっと……」

なんてやっていたころを思い出してしまいました。
 青春ってそんなもん?
 ──笑うところじゃないんだけれど、気恥ずかしい照れ笑いというか、ひとりなので自分の若かりしころを思いだし、涙しながら大笑いしておりました……


 上写真は上蒲刈島と下蒲刈島を結ぶ蒲刈大橋。
 トラス橋という構造で、今回未掲載の大崎下島〜豊島を結ぶ豊浜大橋(とよはまおおはし)や、本州と周防大島(山口県)を結ぶ大島大橋など、瀬戸内には同様の橋が多い印象があります。


 大芝島(Map)


 上写真は、とびしま海道を離れ本州側を走りながら目に入った、カキ養殖用の棚と思われるものです。
 棚にはビッシリとホタテ貝の殻が吊されていますが、干潮時には完全に干上がる場所なので、放棄されたもののようにも見えますが、他にも同様の棚を多く見かけます。
 調べてみると、栄養が豊富そうな場所にホタテの貝殻を吊しておくだけで、幼生が付着して育っていくそうなので、これがカキ養殖の本来の姿なのかも知れません(違っていたらご指摘願います)。


 ちょうどいい具合に時間が空いたので、立ち寄ることができた大芝島です。
 橋が架かっていると、このようにちょっとした時間でも紹介出来たりしますから、島にとってはとても大きな存在です。
 このレポートが貢献できるかは、別問題ですが……


 橋の開通は喜ばしいのでしょうが小さな島ですし、大崎下島の御手洗のように「無理やり農道」しかないので、あまり生活の邪魔をしない方がいいかな、とも思ってしまいます。
 しかし、だからこそフォトジェニックな景色が多くあったりするので、いつも悩んでしまうのですが、ここは行って良かったと思います。
 小さな港や、木造二階建ての小学校などを目にすると、お尻に根が生えてしまうのですが、寒さがそれを許してくれませんでした。


 上写真は小芝島で、流れの速い海域の中で砂嘴(さし:砂などが堆積した浜)を伸ばしている様子が、何ともいじらしく見えます。
 付近の海域は、スナメリ鯨(背びれのないイルカ:分類上イルカとクジラに区別はないそう)の生息地なんだそうで、機会があればそんなテーマでゆっくりと来てみたいと思っています。

2009/01/12

取り残された──大崎上島

2008.12.25
【広島県】

 契島(ちぎりしま)(Map)


 目的地である大崎上島には橋が架けられておらず、船で渡る必要があるので、竹原からフェリーに運んでもらいます。
 そんな道すがら「これは、瀬戸内の軍艦島だ!」という上写真の島影を目にしました。
 わたしが比較の対象としたのは、九州の長崎市街の沖合19kmにある、かつて炭鉱の島として栄えた「端島(はしま)」です。
 「軍艦島」で検索すると両方とも候補として表示されます。
 島全体が人工的なフォルムを呈して、さながら軍艦のように見えることから付けられた通称になります。
 この契島は、東邦亜鉛株式会社の所有で全島が亜鉛の製錬所となっていて、日本の大部分の鉛がここで製錬されているんだそうです。
 ちなみに日本の亜鉛の産地としては、功罪の両面で知られる岐阜県の神岡鉱山(ここは三井)があり、富山の「イタイイタイ病」(カドミウム汚染)の元凶となりましたが、閉山後の坑内には、小柴昌俊さんのノーベル賞受賞に貢献したスーパーカミオカンデ(ニュートリノ検出装置)が作られています。
 「それは言いがかりだ!」などと怒られそうですが、先日ふれた四阪島(銅の製錬所)も含めて、海上交通網が昔から発達していた瀬戸内海では、原材料の搬入から加工までを離れ小島で完結してしまえば、少々の問題は発覚せずに済ませられるというような、実にヤバイ海であったようにも思われます。
 今どきは、有名なカキから、鯛・ヒラメ・ふぐ・ホタテまで、幅広く「育てる漁業」が盛んになっていますから、工場側も神経をとがらせていることでしょう。
 何度も言いますが、ここは日本で最初の国立公園なんですから、と胸を張れる海であって欲しいと思うのです。


 大崎上島(おおさきかみじま)(Map)


 しまなみ海道が通る大三島の西隣で、目と鼻の先にある大崎上島ですが、大きな島にもかかわらずこの周辺では、唯一陸路が整備されていない島になります。
 ここ広島県内の大きな島で橋の架かっていないのは、ここと厳島神社のある厳島(宮島)だけと思われます(大小で区別するな、と怒られるかも知れません)。
 厳島(宮島)に橋は架けない方がいいと思ってしまうので、ここだけが取り残された印象を持ってしまいます。
 架橋の計画はあるそうで、後述しますが呉方面から島づたいに隣の岡村島までは開通していて、この島をつないだ後には大三島からしまなみ海道に接続するというもので、かなり壮大な計画になります。可・不可も含め、いつ頃実現するのでしょう?
 確かに人口の多くない島に橋を架けることの費用対効果としては、島民だけを優遇しているように映るかも知れませんが、国や自治体が、その島を国土として有効活用したいと考えているならば、将来への投資として予算を組むべきではないか、と思われます。
 その基準ラインの引き方は難しいと思うのですが、島民が新たな社会活動を計画したときに「橋のおかげで可能になりました」という希望と「橋があれば可能だったのに」という絶望では、その島の価値に天と地ほどの差が出てしまう、と思われるからです。
 それで過疎化が防げるとは思っていませんが、まずは可能性をつなぐことから始めるべき地域ではないかと思われます。
 何度となくやり玉に挙げられる道路行政についても、いまある道を広げることも必要ですが、道なき場所に道を造ることも重要ではないかと思われます。
 ──たまにしか行かない部外者の意見としては「フェリーの方が風情がある」なんですが……


 瀬戸内の島には、穏やかな海という地の利を生かした造船所が無数に点在しています。
 ──生活の手段として船を利用していたので、船大工が多くいたことは理解できるのですが、むかし海軍の軍艦を作ることから始まったのでは? なんて言いたくもなってしまいます。

 そんな島々に平坦な土地はありませんから、上写真のように道路や家並みにはみ出しているのでは、と思えるような場所で船が造られています(左下は一般道)。
 ミカンを栽培しているだけでは若者は根付かないでしょうから、工場(造船、製錬所)等の誘致(結構大きな発電所もあります)という選択は、地域社会の経済と存続に大きな役割を果たしていることなのでしょう。
 本来ならば兵庫県の家島諸島のように、漁業で活気を保って欲しいと言いたいのですが、大都市圏が近くにない地理的条件や、漁業資源の問題もあるでしょうから、新しいことを考える必要があるのだと思われます。


 そんな、船でしか行けない、特に観光名所もない地味な島にもかかわらず、「もう一度行きたいなぁ」と思い続けてきた場所があります。
 上写真の絶景露天風呂「きのえ温泉」(ホテル清風館)です。
 人の気配を全然感じない、大海原に面した露天風呂もいいですが、瀬戸内の島々の奧にしまなみ海道の橋が見えていたりするのも一興と思います。
 また、この日は少なめでしたが(景気の影響か?)目の前を船が適度に行き来するので、飽きることなく海を眺めて湯につかっていられます。前回は1.5時間、今回も2時間弱入っていました。
 「そんなに入ってられない」と思うかも知れませんが、いまの時期この露天風呂は吹きさらしで風が強いのでめちゃめちゃ寒く、火照ってきたら半身浴で体をさましたりしているうちに、時間はあっという間に過ぎてしまいます。
 途中から入ってきたおじさんが(滋賀県の方)「瀬戸の島にもこんな素晴らしい温泉があるとは驚いた」と、よろこんでおられました。
 アクセスはちと面倒ですが、従業員の方から「今日は開店休業状態です」の言葉が出てくるこの時期でしたら、この眺望を独り占めできますよ! 是非いかがでしょうか。

 わたしもそんな宣伝をするようですから、大きくは儲からないのかも知れませんが、わざわざでも「行きたい」と思わせてくれるような売りというものを、地方の町では考える必要があるのだと思います。
 そりゃあ「また行きたい」と思えば、ノコノコと来てしまいますからね……


 風呂場でセルフタイマーをセットしている姿を想像すると、笑える格好だったことでしょう(バカだよね……)。
 何たって独り占めだもの、バカなことやったっていいじゃないですか!

2009/01/09

ショイ!──道後温泉、別子

2008.12.23-24
【愛媛県】

 大角鼻(Map)


 ここは四国の愛媛県側にある瀬戸内海に突き出した岬の突端になり、前回ふれた来島(くるしま)海峡の西の入り口にあたります。
 上写真は、来島大角鼻潮流信号所という潮流の状況を船に知らせるサインボードになります。
 この時の表示は「N」「2」「↓(上写真)」で、北流(南から北に向かって流れている)2ノットでこれから流速が遅くなることを知らせています。
 瀬戸内海の潮流は満ち潮と引き潮で流れが逆になりますから、この情報は大切なものになります。
 それにしても驚いたのが、来島海峡では流れの方向によって通行ルールが変わるということです。
 潮流が北流時は右側通航で、南流時は左側通航に変わるという、世界でここだけというルールがあるのだそうです(一般的なルールは右側通航)。
 そんなややこしいルールを決めないと事故を防げない海の難所であるからこそ、架橋は悲願だったのでしょう。
 また、そんな海を熟知しているからこそ、水軍(海賊)という集団(ひとりでは無理でしょう)が存続し続けられたと、言えるのかも知れません。


 鴨池海岸(Map)


 「オギヨディオラ(Ogiyodiora)」という、韓国人歌手リーチェ(Lee-tzsche→イ・サンウンに改名)の曲があり、映画『がんばっていきまっしょい』(1998年)の主題歌に使われました、。
 その言葉は、韓国で船を漕ぐときのかけ声のようなもので「さぁ、船をこぎ出そう」という意味だそうです。
 「〜しょい」は、松山出身の敷村良子の小説で、松山市主催の「坊ちゃん文学大賞」を受賞した、高校でボート部に打ち込む少女たちの姿を描く青春小説で、映画(田中麗奈)、テレビドラマ(鈴木杏)にも取り上げられました。
 「定番の部活モノ」には違いないのですが、この鴨池海岸は映画の舞台となった地で、瀬戸内の穏やかでキラキラと輝く海の上を、手こぎボートが進んでいく姿に、瀬戸内海というとても身近に感じられる存在と、そこに暮らす人々とのかけがいのないつながりが見事に表現されていると思えるような、強烈な印象として焼き付いており、今回のテーマのように思っていました。
 もちろん高校生でもボート部でもないのですが、これまでのところ瀬戸内海のイメージに最もふさわしい曲と感じており、いつもオギヨディオラを口ずさみながら車を走らせています。
 
 「がんばっていきまっしょい」とは高校で実際に使われているかけ声だそうで、リーダーの「がんばっていきまっしょい!」に続いて全員が「ショイ!」と気合いを入れます(何てチャーミングなんでしょう)。
 わたしも気合いを入れて、船をこぎ出さねば!

 右写真は、道後にある伊佐爾波(いさにわ)神社で、映画ではトレーニングの場に使われているところを、歩いて登ってもゼイゼイしてしまうわたしですが、もう「鍛えなきゃ」とか思わなくなってしまいました。
 ──だって、近ごろ整骨院に通っているのですが、良くなってきたと薦められたストレッチをやった途端「筋肉がつっちゃったみたいですね」と、ふりだしに戻ったりしちゃうんですもの……(それでもやらなきゃダメと思っています)


 道後温泉(Map)


 四国のシンボルと言えるかも知れませんね(他県の方には怒られそうですが)。
 外国の方を案内して入浴する方がいましたが、確かに温泉文化それも道後温泉本館を知らずして、日本をうんぬん言って欲しくないなぁ〜、だなんて完全にオヤジですね。
 今回は、休憩席(座布団一枚)にお茶とお菓子が出る二階席に上がったのですが(800円)、やはりひと息つけると落ち着けますね。
 「風呂上がりに熱いお茶かい?」と思っていたものも「急に冷めると体によくないですよ」と言われているような気がして、「うれしい心遣いじゃね(伊予の言葉になってます?)」と楽しむことができました。
 今どきの温浴施設には、リクライニングチェアなどが用意されていて昼寝もできるのですが、ここは「一時間以内」との制限があるようです。まあ、温浴施設のルーツみたいなところですから、楽しめる範囲(坊ちゃんの間を見学出来ます)を満喫しましょう。
 館内の廊下に、何だか自慢げに映画『千と千尋の神隠し』のポスターがはられてありました。
 こっちが湯屋のモデルになっているのにとも思いましたが、口コミ等の宣伝効果としては抜群ですからね。

 屋根の上に立つのは白鷺の像です。
 由来として「足を痛めた白鷺が岩の間から流れ出る湯に浸していたところ、傷は癒えて飛び立って行くのを見て、村人が温泉の効能を確認した」という伝説があるそうです。
 そんな話しはどこの温泉場も似たり寄ったりの気がしますが「白鷺伝説」のルーツも、案外ここだったりするのかも知れません(それだけ歴史があるという意味)。


 松山の食として楽しみにしていた近くの寿司屋ですが、大将が替わってしまい何ともガッカリ。釣りが好きな方で前回は話しが弾んだのですが、出会いって難しいですね……
 翌日近くをブラブラしたのですが、朝っぱらから「椿の湯」という共同浴場にじいちゃん、ばあちゃんが集まってきます。
 みなさん習慣になっているんだと思われますが、贅沢な日常を過ごしておられるものだと、うらやましくも感じられました。
 是非この共同浴場に入ってみたいと、次の計画を考えはじめております。そうです、じいちゃん、ばあちゃんと同じように、その風呂に入るために「ショイ!」です。

 前日の到着時、カーナビに誘導されて道後温泉の歓楽街を通りました。まあ、スゴイこと!
 歴史があるとか、観光地だからなどという飾り文句は通用しないのが温泉街、ということなのですね……


 別子(べっし)銅山跡(Map)

 ここは新居浜市の山奥にある銅山跡です。
 1690年(元禄時代)に発見され1973年までの約280年間に、70万トンを産出して日本の近代化に寄与した銅山だそうです。
 その間ずっと住友家が経営して巨大財閥の礎となった経緯もあり、一帯でかなり出費の伴う文化事業を運営しています。
 四国の背骨的な山地の有り様は紀伊半島の山地同様で、柔らかい食パンをお皿などに置いて両側からギューッと両側から押しつけて、山形に盛り上がったところにさらに力を加えると、パン生地がはがれて(ささくれて)いくような尖った格好をしているので、とっても険しい地形になっています(地球科学のプレートテクトニクスの話しはやめときましょうね)。
 よくもまあ、元禄の時代にこんな険しい山の中で鉱脈を見つけたものだ、と感心してしまいます。
 この場所は海抜1,000m近いと思われますが、鉱山の最深部は海抜マイナス1,000mにも及ぶそうです。
 実はここには、これで三度目のチャレンジになります。
 最初は夏に来て、大雨の崖崩れで通行止め。二度目はこの時期で、雪が積もっていて断念しました。
 三度目でたどり着いて思ったのは「何でそんなに来たかったのだろうか?」でした。


 この場所を知ったのは、これも映画で『船を降りたら彼女の島』(2003年 木村佳乃)に登場していたからです(大三島の鶴姫もそこで知りました)。
 この映画は「えひめ映画製作委員会」という、愛媛県や県内の企業から出資を募った団体が制作費を負担したんだそうです(これ今回知りました)。
 それを含めて考えると、映画の監督は『〜しょい』と同じ磯村一路(いそむら いつみち)で、評判の高かった前作とは違ったアプローチで愛媛県をアピールしたいとの狙いだったようです。
 『船を〜』はそれほど評価できないものの、愛媛県をアピールするには見事なくらい舞台をダブらせずに、補完し合っています。
 そんな狙い通りにトレースしている自分に気付き「やられたぁ」とは思うものの、おかげで見て回ることが出来たので感謝しています(これを書いているときに気がつきました)。
 宣伝などしなくても人が集まってくる都会とは違って、アピールしないと人が寄ってくれない地方都市の宣伝として、見事に響いてきました(地方の都市は頑張らねばいけない、ということなのですね)。
 行っただけでは貢献できないと思うので、ここで宣伝しておきますね(宣伝になるの?)。
 下写真、奧の山には雪が積もっています。


 下写真は、前日の大島にある亀老山展望台から撮影した四阪島(しさかじま:家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島5つの総称)です。
 島に比べて、煙突の大きさが異様に大きいと思いませんか?
 元禄の世から別子銅山にて採掘された銅の製錬を地元で行ったものの、栃木県の足尾銅山と同様の亜硫酸ガスによる煙害問題が発生し、新居浜の沖合20kmにある無人島の四阪島に製錬所を移したのですが、余計に被害が広範囲に広がってしまったそうです。
 一時は5,500人が暮らしていた人口も現在はゼロですが、新しい工場が稼働中だそうで従業員は渡船で通うのだそうです(会社の管理下にある島)。


 そうだよなぁ。
 大きな夢として「無人島を独り占めしたい!」なんて思う方もいると思うのですが、ライフライン等のインフラの整備を考え「できるだけ、多くの人のため、社会貢献のために!」と言われたら、はね返すだけのわがままさを持てない身としては(大富豪でない限り)、無理ということなのでしょうねぇ……

2009/01/07

ピッチピチの、プリップリ!──しまなみ海道

2008.12.23-25
【広島県】【愛媛県】

 しまなみ海道(Map)

 しまなみ海道(正式名称:西瀬戸自動車道)は、尾道から向島、因島、生口島(←広島県 愛媛県→)、大三島、伯方島、大島等を橋でつなぎ、今治までを結ぶ自動車専用道路になります。
 橋りょう部分は1999年に完成したものの、生口島と大島の島内部分の整備は先送りされ、2006年にようやく全線開通となりました。
 全線開通してからは初めての訪問なので、通しでかっ飛ばしたい気持ちもあったのですが、それではあまりにもったいないので、各島に降りてのんびりと往復してきました。


 向島(むかいじま)(Map)


 尾道市街に面した海をフェリー(乗船時間3分)で渡る島で、本土側から見える大きな造船所ではクレーンをライトアップしています。
 その尾道水道には、通行料150円の「尾道大橋」(1968年完成)と、通行料300円のしまなみ海道「新尾道大橋」(1999年完成)の、巨大な橋が2つ並んで架けられています。
 計画性が無いと言いますか、高速道路の計画はあったにしても30年待てとは言えない理由があったのでしょう。
 造船所への大型車両の通行など、生活道路として尾道大橋の必要性や、尾道市街の混雑緩和に貢献していることは理解できますが、それでもみなさんはフェリー(普通車90円)を利用しています。わたしもフェリーを選択しちゃうと思います。
 後述しますが「歩行者が渡れるしまなみ海道」なのに、新尾道大橋には歩行者、バイク用レーンがありません。
 そうなると古い尾道大橋を渡ることになると思いきや、歩道幅が狭く危険なので、自治体では安全の為に渡船の利用を勧めているんだそうです。
 中途半端だし、どういう計画なんでしょうね?

 島の反対側(南斜面)にはミカン畑があり、本来この時期には斜面一杯にオレンジ色が広がっているのですが、今年は収穫時期が早かったのか、期待していた光景には出会えずにちょっと物足りない写真になりました。


 因島(いんのしま)(Map)


 ここは白滝山の山頂で、五百羅漢の石仏(700体あるそう)が崖の上に安置されています。
 上写真で伝わっているでしょうか、何もそんな崖っぷちに建てなくてもと思ってしまう場所に鐘楼があります。
 ここは岩が尖ったような山頂で、風の強かったこの日は時より突き上げるような突風が吹いくるので、展望台ではへっぴり腰でシャッターを押していました。

 海道周辺の島々はむかし村上水軍の拠点だったこともあり、この場所も水軍の将が観音堂を建てたことから始まったそうです。
 見つけられなかったのですが、五百羅漢以外にも十字架などが刻まれたものもあるそうで、江戸時代には神道・仏教・キリスト教・儒教などを融合した新興宗教の本山だったそうです。
 信仰の対象となりそうな場であることも確かですが、水軍の見張り場を作ろうした動機の方が理解しやすいと思える、眺望の素晴らしさです(怖かったんですがね……)。


 地図を見てもらえば分かると思いますが、因島周辺には橋の架かっていない小さな島が点在しています(生名島、弓削島、岩城島等々)。
 そんな島々をフェリーや高速船で結ぶ拠点となる土生(はぶ、と読みます)港があります。
 近ごろ「ハブ空港」(航空路線網の拠点となる空港)と耳にすると、規模は小さいですが同じような存在で、日本語の音も同じであると思い浮かべる港で、わたしはこちらのサイズの方が親しみが持てて好きでいます。
 目の前に島が見えますしね(いい写真撮れませんでした)。


 生口島(いくちじま)(Map)

 近ごろの流行なのか、アート作品をちりばめることで関心をひこうとする地域をよく見かけますが、ここは「島ごと美術館」という取り組みで、右写真は「千里眼」という作品なんだそうです。
 ここはサンセットビーチという、文字通り夕日がキレイな砂浜なんですから、わざわざこんなものを作らなくてもいいと思うのですがねぇ。

 下写真は生口島〜大三島をつなぐ多々羅(たたら)大橋です。
 しまなみ海道の橋には、歩行者・自転車・二輪車が通行できるレーンが設置されています(新尾道大橋以外)。
 ロードレースの格好をしてツーリングしている親子連れを見かけましたが、陽気のいい季節には自転車で海道を走るサイクリストが多く、乗り捨て可能なレンタサイクルの拠点が多く設置されていているそうで、今治には宿泊施設があったりします。
 以前利用したその「サンライズ糸山」という宿泊施設から持ち帰ったフェイスタオルは、普通の旅館で出されるものより繊維の密度が高く柔らかいので、いまでも使っています。
 さすが「タオルの町 今治」と宣伝しておきます。


 写真では分かりませんが、橋の上をウオーキングしている人が結構いることに驚かされました(歩行者無料だそうです)。
 天気のいい日などは気持ちいいのでしょうが、最も大きな来島大橋では海面から橋桁まで65mあるそうで、歩道は外側にあるのでフェンス外側の足下には海面が見えるわけですし、突風も吹いてくるでしょうに。
 高所で恐怖感を覚えるようになってきたわたしには、無理そうです……
 全部の橋が高いわけではないにしても、橋を渡るたびにそれぞれの橋桁まで登って行く必要がありますから(専用の道が設置されている)、その上り下りだけでもキツそうと思ってしまいます。


 大三島(おおみしま)(Map)

 右写真2枚は大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)で、伝えによると594年に摂津国三島江(現在の大阪府高槻市:昨年まで住んでいましたが知りませんでした。淀川のほとりにあったようです)からこの地に移されたとのことです。
 山の神、海の神とも言われているようですが、主に戦いの神として信奉されたようで、平氏、源氏など多くの武将が武具を奉納したそうで、源義経の鎧も展示されています(国宝、重要文化財とされる甲冑の約4割が集まっているそう)。
 そんな歴史があってか戦国時代には、戦いとはいえ神社の宮司は戦場には立てないので、一族から陣代(主君の代理)を派遣していたそうで、そんな中、兄の戦死という状況により16歳の若さで鶴姫(宮司の娘)が水軍の将として出陣し、見事勝利したそうです。
 「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」と称されながらも(本家は1400年代、鶴姫は1500年代)繰り返される戦いの中で恋人を失い、18歳で母親の形見とされる鈴を胸に入水自殺をしたと伝えられる「鶴姫伝説」があります。
 以前神社では、その「鶴姫土鈴」を売っていたのですが、今回見あたりませんでした。
 伝説的な話しではありますが、いまでも鶴姫祭りが行われているそうです。
 ──今どき通じる人がどれだけいるのか? コミックの「つる姫じゃ〜っ!」とは無関係です(これ、書きたかったんです)。

 さぁ、今回のお楽しみのひとつである、大三島の旅館「富士見園」の夕食です。
 ふつうの旅館ですが前回の料理が忘れられずに再訪しました。
 やはりここまで来なければ食べられないモノがあるんです。
 煮魚も揚げ魚(骨までバリバリ)も、両手でむしゃぶりついてしまうので「魚がお好きなんですねぇ」と、お褒めの言葉をいただきました(カニを食べる姿に似ているかも)。
 前日が祝日で市場が休みだったらしく「今日は鯛ないんです」の断りも何のその、その日手に入る魚で献立を考えてもどれもウマイとは、何と幸せな海なのだろうか! 
 オコゼ、マコガレイ、アコウダイ、みんなピッチピチの、プリップリ!
 魚のサイズが小ぶりなのがいいんですね。
 一匹丸ごと平らげると満足感を得られるのですが「次は何?」と、猫がエサをねだるような目をしているような気がしますもの。
 魚好きは瀬戸内に限りますねぇ(メバルも食べたかったなぁー)。

 下写真は、大三島より来島大橋を望む。




 伯方島(はかたじま)(Map)

 大三島と大島の間に伯方島があるのですが、残念ながらこの島だけはタイミングが合いませんでした。
 「伯方の塩」という商品をご存知でしょうか?
 1971年に自然塩を廃止する法律ができたことに危機感を覚えた人たちが、存続を嘆願して権利を勝ち得たという経緯があるそうです 
 赤穂の塩(兵庫県:赤穂浪士の地)も美味しかった印象があるので調べてみると、伯方と同じような運動をしていたそうです。
 そんな特産品を使用した「伯方の塩ラーメン」(あっさりしていてスーッと食べちゃう)、「伯方の塩ソフトクリーム」(キャラではないわたしでも食べられるスッキリ味)を食べたいと思っていたのですが、夕飯前の時間だったり、売店が閉まっていたりで断念しました……
 また来なくっちゃ。


 大島(Map)


 上写真はしまなみ海道において、最大の建造物である来島大橋で、橋脚の高さは184mあるそうです(ちなみに多々羅大橋は224m)。
 ここは亀老山(きろうさん)展望台で(右写真も)、とてもモダンな印象を受ける建造物で好きなのですが、景観に配慮するということは、外からは目立たぬようにしながらも、中には迷路のような空間を配置する「砲台のイメージ?」なんてことを感じたのですが、元はそうだったのかも知れません。
 本州と四国の間に島が連なるしまなみ海道の中においては、この来島海峡が最も広く海底地形の影響もあると思われますが、大型の船舶はここを通るしかないそうです。
 昔から「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸(関門海峡)」と言われるほど潮の流れが速い海峡で、全国でも有数の船の難所だそうです。

 モダンなものですから展望台の手すりがワイヤーだったりするので、カップルの名前入りの鍵がたくさんぶら下がっていたりします。
 まあ、鍵も金属なので、さびて朽ち果てることは理解しているでしょうから「それくらいまで二人の仲も持てばいいか」との受け止め方は、ちとひがみすぎでしょうか?
 でも、さびのせいでワイヤーが切れてしまったら困るでしょうから、定期的に片付けるのだと思われますが……

 この島にも魚料理が美味しそうな旅館があるのですが「お一人様お断り」なので、泊めてくれません。
 誰か一緒に行ってくれませんか?