2009/01/19

京都から独立した気概──佛通寺

2008.12.27
【広島県】

 筆影山(Map)

 ここは三原市街の近くにある、海に面した山頂の展望台です。
 瀬戸内海の絶景ポイントのひとつで、快晴の日のお昼頃だと南側は全面逆光(キラキラ)の海になります。
 山道の途中で三脚を据えている方がいましたが、光の具合を計算しているでしょうから、きっといい絵が撮れたことと思われます。
 奧に見える橋は、向島と因島を結ぶ因島大橋です(キラキラよりもこの方面が撮りたかったので…)。

 世の中のモノは遠くから眺めると、いい悪いを含めた判断や認識ができる対象の範囲を超えた「風景」となってしまうので、ほとんどのモノは美しい絵を構成するパーツの一部になることができるのかも知れません。
 そんなことを感じる自分の認識のいい加減さを、確認できたようにも思えました。
 ──この景色の中に、気に入っているモノや、気に入らないモノがあるというわけではなく、好き嫌いの判断ができないならば同じフレーム内にあるものは、等価値として判断していいのではないか? と感じたという意味です。


 上写真に「瀬戸の花嫁」(1972年:小柳ルミ子)を想起したなどと書いても伝わりませんわね。年代を調べようとしたら「懐メロ」とありました(小豆島近くの沖之島が舞台なんだそうです)。
 フェリーなどではもう耳にしませんでしたが、周辺にあるJRの駅では「駅のメロディ」として使用されているそうです。
 いまどきの音楽事情からすると、ポルノグラフィティ(因島出身)などになるのでしょうか……
 男なので、海を渡って嫁ぐ心境というのは理解できないのですが、逆に、海を越えて嫁さんを迎えに行く状況を想像すると、まさしく決心を胸に海を渡るわけですから「これで、男になれたかなぁ」と思える程度には、少し大きく見えたのではないでしょうか。
 いずれにしても、素晴らしい舞台設定であると思ってしまいます。
 ──これ全部、頭の中での勝手な想像なんですけど……


 佛通寺(Map)


 前日の宿にあった観光案内でこの寺の名前を見つけ、どこかで聞いたことがあると思い立ち寄ってみました。
 駐車場は空っぽで、路線バスも空気だけを運んで来るような時期ですが、紅葉の季節にはもの凄い人出なんだそうです。
 参道の杉並木のたたずまいから素晴らしく、崑崗池(こんこういけ:雪舟の名前が残るそうですが、お寺側は潔く否定しています←そんな姿勢こそが「日本人の尊さ」と思います)の存在感は、作者がどうあれ目を引かれます。
 そして屋根の付いた橋が二つあり、手前に飛猿橋(ひえんばし)、山門前に上写真の巨蟒橋(きょもうばし:巨蟒=大蛇の意味)が架けられています。
 ──今回は紹介できませんでしたが、四国愛媛県の内子(うちこ)周辺には、屋根付きの橋が多くありますので、興味のある方は是非。普通の農道に架けられた橋に作物が干してあったりする風情は一興と思います。

 久しぶりに「京風」の禅寺に出会えた気がして「おぉ」と声を上げて、ちと興奮しました。
 その心境を後でふり返ってみると、京都につながる存在を欲していたのではないか、とも思われます。

 ここは1397年に小早川春平(近くにある高山城主)により創建された臨済宗の禅寺で、開山(最初の住職)は愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう:夢窓国師の弟子)になります。
 室町時代の足利将軍家に保護されながらもその後衰退し、明治時代に臨済宗佛通寺派として独立して、総本山になったそうです。
 ──きっとそんな記述を覚えていたのだと思います。

 ほとんど威光を失っていた寺の再建という運動により、京都嵐山の天龍寺派からの独立復興を果たし、西日本唯一の参禅道場(一般者も参加できる)を開くまでに至ったとのことです。
 中央に頼らなくても存続できる(この場合は京都)といった基盤や信念を、それぞれの地域で確立していくことが、いつの時代でも大切だと思われるのですが、経済的な側面を考えるとどんどん難しくなっているようにも思われます。
 今どき「独立してやるぜ!」なんてたんかを切れる地方があったとしたら、こころ動いてしまうような気がするのですが……
 ──あくまでも、どこかの国の宗教のように「○○派の武装組織」などとならないことが前提です。

 右写真には、境内の砂に描かれた模様が見られます。
 鎌倉で目にした庭よりも、もっとアバウトな印象(柵もなく足を踏み入れられる場所にある)なのに「石庭を久しぶりに目にした」と感じたのはなぜでしょう?
 周囲の環境にとてもなじんでいるというか、砂に描かれた筋に沿って空気が流れているかのようで、そこから「静けさ」「やすらぎ」というものが感じられるのかも知れません。
 禅道場もあるお寺ですから、俗世から離れる必要もあったと思われますが、静寂感に包まれている立地が素晴らしい、と感じさせてくれるお寺です。
 修行中のお坊さんも見かけたりしても、無愛想な感じが好印象だったりします。


 自分では右写真の構図がとても気に入っています。
 撮り方がどうのこうの言うのではなく、石仏の配置が見事だと思います。
 正面を向いている仏様と、右側に並んでいる仏様では、奉られた目的が異なると思われるのですが、時を経ることによりそれぞれに込められた祈りが、後方の多宝塔へと収斂されているように見え、同じように現世の安寧を願っていてくれるように思えるからでしょうか。

 ちょうどこれを書いているころに映画『禅 ZEN』を観ました。これは、道元による曹洞宗を描いていますから、これまでふれてきた臨済宗とは異なってきます。
 禅宗とは、個人救済のための教えという印象があり、道元の姿勢の方が正しいようにも思えます。
 ですが、国の役人や領主など、上に立つ者にすれば、国の民や領民のこころをまとめる役目があるので、政治に利用できる禅の教えというものも必要だったのではないか、とも思われます。

 京都の石仏を思い出してしまい、また会いに行きたい気持ちが高まってきました……

 これで今回の瀬戸内の旅は終了になります。
 現在最も気に入っている「瀬戸内海のいいとこ取り」(+鞆の浦としたいところです)という企画だったのですが、ご意見をお聞かせ下さい。
 次の旅行は……
 なんて言ってる場合ではなく「し・ご・と」です。

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