2009/01/16

時をかける少女も困惑する?──竹原

2008.12.27
【広島県】

 竹原(Map)

 ここは5年ぶりなのですが前回は予習をしていなかったので、どこかで見た気がすると感じながら「…かも知れない」程度の、おぼろげな記憶しかなくて悔しい思いをしました。
 その時以来、旅行前にその地を舞台とした映画を観るようになったんだと思います。
 尾道が舞台だと思っていた『時をかける少女』(1983年)に登場した町並みは、ここ竹原にありました。
 この写真群を見た後で映画のDVDなりを見てもらうと、ちょっと驚くと思います。
 25年の月日が経過したとは思えないほど、映画に登場したそのままの風景がこの町には残されています。
 景観保存地区ではあるのですが、ここまできれいに残されているとは思いませんでしたし、そのような「残して、後世に伝えたい」という気持ちが、文化をはぐくむ原動力であることを「現在進行形」で感じることができて、とてもいい経験になっと思っています。


 前回訪問時の予備知識としては、古くからの町であり「竹の原」から想起される竹の産地→竹取物語方面に関心が向いており、「かぐや姫美術館」(忠海:ただのうみ)など、ガイドブック等のコマーシャルに乗せられていたようです(物語の舞台は奈良県だそうです)。
 地名の由来としては、「竹の原」(現在でもタケノコの産地)もしくは、室町~戦国時代の領主であった竹原小早川氏によるという説があるそうです。
 町の起こりは平安時代、京都下鴨神社の荘園として栄えたそうで「安芸の小京都」と呼ばれると、竹原市の観光案内では自慢しています。
 いにしえの地方都市はどこも、京都の文化や華やかさにあこがれ、こぞって京風をまねたり取り入れようとしていました(最初の写真は清水寺の舞台を模した普明閣からの風景)。
 現代では豊かさの象徴とされる東京ですが、いまでは都市の側から大資本に物を言わせ、地方都市のエキスを吸い上げようと襲いかかってきます。
 地方まで制圧した感のあるコンビニですが、新規開店するごとに地元商店を駆逐していったことは、地方都市にとって脅威に感じられたのではないでしょうか。
 そんな認識がありながらも、旅行時には立ち寄ってしまうし、無いとどうしようかと考えてしまうわたしなどに、批判する資格はありません。
 「便利さ」という基準によって淘汰されていく地元商店、という図式は理解できるのですが、それじゃ商店街が寂れるばかりじゃないか、と指をくわえているしかないのだろうか?


 上写真3枚は西方寺という浄土宗のお寺で、暮れも押し迫る時期なので、ご先祖様のお墓掃除に訪れる方が何組もおられます。
 わたしの家では、春秋の彼岸にしかお墓参りをしていなかったので、きっと「この不精者」と怒られていたかも知れません。

 前日は近くの湯坂温泉にある、近ごろ売却問題で話題のかんぽの宿に泊まりました。その温泉には近所の方も入りに来るので、露天風呂などは満員です(そんなこともありこの施設の運営は成功しているように思えるのですが)。
 風呂の中で、かなりお年を召したじいさんの戦争体験の話しを、知り合いとは思えないおやじが、大げさ過ぎと思える相づちを打ちながら、じいさんを盛り上げようとしていました。
 そんな光景を見ていると、振り込めサギの「言葉巧みに…」とはこういうものかも、なんて思ってしまいます(大変な失礼かも…)。
 素直に受け入れられない世の中って、困りものです……


 この町には古くから市場があったようですが、町が栄えたのは江戸時代の塩田開発と酒造業が盛んになってからのようです。
 この町並み保存地区は昔の商家町で、立派な建造物が軒を連ねています。
 それぞれの旧家では、ひな祭りになると各家に伝わるひな人形を展示するので、そんな人形たちを見て回ることができるのだそうです。
 ここがメインストリートで、その通りの突き当たりに恵比寿堂(上写真)がたたずんでいます。
 クロガネモチ(だったか?)の赤い実が、白壁の町並みに彩りを添えている辺りを(右写真、町並み保存センター前)、右奧に少し入ったところに、お祈りしながら持ち上げて、軽いと感じたら願いが叶うと伝わる、おかかえ地蔵があるので、とにかくお願いしておこうと……
 それなりの重量感はありましたが、重いと言ってはいけません。


 これが「竹の里」の素直な楽しみ方なのではないか、と思われました。
 この地はむかしから竹が多かったにしても、かぐや姫のルーツではないわけですから便乗などとは考えず、そこは歴史を謙虚に受け止めた上で「竹原の竹を楽しんでみませんか?」という提案のように思え、この庭を造った方の趣向に賛同できる思いがしました(おかかえ地蔵からの帰り道脇だったと思う)。


 手前にある横に渡された木は目の前にある格子ですが、その奧、縦に並んでいる模様は、この上段に設置されている格子の陰になります。
 伝わるでしょうか?
 竹原の旧家屋の格子は、形式や組み合わせがとても多様だそうで、それも見所であるとの説明があるのですが、わたしはそこまで区別できませんでした。


 瀬戸内海に点在した塩田とは、入り江の奧に広がった湿地で稲作を試みても、塩分が強すぎて作物が育たない土地なので、仕方なく塩田とされた場所が多いらしく、竹原もその部類にはいるようです。
 ということは、児島湾を埋め立て水田を作った(ことのはじめは戦国大名の宇喜多秀家とのこと)彼らは「プロジェクトX」モノですね……
 塩田となった地はそれでも、工場誘致の埋め立てをしやすい下地を作っていたことになりますから、自治体も助かったことでしょう(逆説的な意味)。
 だったら、やっぱり児島湾の干拓地のような景色の方が好きだなぁ。
 しかし、工場ゼロでは地域経済が成り立たなくなってしまいますから……(まとまらない文章になりましたが、現実って難しいですよね)


 塩と並んでこの町の財政を支えたのが酒造業だそうで、ニッカウヰスキー(余市工場に行ったことあります)の創業者である竹鶴さん(ボトルの名前にある)は竹原の酒蔵出身だそうで、竹鶴邸が残されています(写真は別の場所)。
 酒と書かれた布地左側の白くシミのように見える部分は、繕った跡になります。
 のれんを守るって、こういうことなのでしょうね。

 いや、狭いながらもむかしから守り続けてきた文化が、伝えられたままに残されている、本当にあっぱれな町でした。

 時をかける少女が何度訪れても
「また同じね。これじゃ、いつの時代だか分からない!」
 なんて嘆くかも知れません……

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